全年全月18日の投稿[3件]
2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
2023年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
どれも気に入ってる写真だから載せたくなっちゃうけど、なんでもかんでも載せてるとキリがなくなってしまいそうなので、厳選した方が良いのかなと思う。
見にくる人からしても、厳選されてた方が見やすいだろうし、そこそこの写真はこことmisskeyに載せるくらいで十分かも。#自問自答
見にくる人からしても、厳選されてた方が見やすいだろうし、そこそこの写真はこことmisskeyに載せるくらいで十分かも。#自問自答
他人には簡単に勧められないが、自分としては非常に深く感じ入る素晴らしい映画だった。
この作品は、特に日本では原爆を扱うものということでそういう目で見られているけれども、私にはノーラン監督が示したい「人間性」を語るための主人公としてオッペンハイマーがあり、そのオッペンハイマーにとって人間的に非常に重大なイベントがマンハッタン計画であったという話であって、原爆の存在や原爆によってもたらされたものそのものは映画の題材ではあっても主題ではないと思う。原爆を題材に持ってくると、それ自身がテーマになっていなければならないと思ってしまうのは、被爆国の民である日本人にかけられた呪いであるのではとさえ思った。
トリニティ実験での原爆起動シーンの不要なものをそぎ落とした緊張感のある描写も素晴らしいが、それ以上にこの映画の題材である原爆の起動シーンをその後のパーティで演説するオッペンハイマーの重苦しい感情描写をするための「呼び水」として使うところに驚嘆したし、その時点で「これは原爆の是非を描く映画ではない」と感じた。事実、原爆のショッキングなシーンはそこだけで、メインとなっているのはオッペンハイマーの聴聞会と彼不在の公聴会なのだから。ほぼ吐露されることのないオッペンハイマーの内心と、彼の周りにいた人間の反応から描き出されるオッペンハイマーという人間の像。そこに人間性を削りだそうする映画だと、私は思う。
広島、長崎の投下シーンが描かれなかったことで批判されていたりするが、この映画を見ればそもそもそれは映画の主題ではないと分かるだろうし、そもそもオッペンハイマーはその投下シーンを見ることはできない立場なのだから、描かれるはずがないものなのだ。
この作品の中ではオッペンハイマーはとっつきづらく分かりにくい人間として描かれているが、それゆえに彼のそばで彼の理解者としてあった人々と、そうではなかった政治側の人間たちとの対立が科学者の持つべき誠実さというような人間性に踏み込んだ物語性を生み出していると思う。軍人ではなく科学者としての立ち姿を選んだオッペンハイマー、「ニア・ゼロ」というワードを選ぶオッペンハイマー、そして、「預言者と民衆は違う」ということ。原爆という火だけでなく、人類に技術という「火」をもたらすことの原罪と苦悩、火をもたらすプロメテウスとして失ってはならない誠実さ。傲岸不遜ながら臆病なオッペンハイマーがそれでも譲らなかった何かを描き、彼の苦悩を表現することで描写されたノーラン監督の持つ科学へのオプティミズムに走らない肯定が、この作品では非常に強い印象をもたらしている。
ノーラン監督は難解なテーマや複雑な構成に挑戦しながら一級の作品を作り上げる名匠で、「オッペンハイマー」ではそれが遺憾なく発揮されていると思う一方、見る側に高い能力を要求し、見る側にその能力があるのだという信頼のもとで作られていると感じる。私は、そういう作品をきっちりと作り上げる人を強く尊敬する。
科学を志して、一応は行くところまでいって学位を取った身としては、綺羅星のような天才たちが登場するというだけでもワクワクするけれども、それ以上に苦悩を通して科学という営みへの肯定が描かれるこの映画がとても好きだ。
私にとっては非常に素晴らしい映画だった。けれども、私と同じような感想を抱く人は少ないのだろうとも思う。難しい映画だけれども、この映画に似たような感銘を受ける人とは近しい価値観を持てるのかも知れない。
物語や描写に感動したり、描かれたテーマに共感して涙を流したりでもなく、ただただひたすらに「得心」して涙を流すような作品に出会えたのは得難い経験だと思う。
予習として日経サイエンスの特集記事を読んでから行ったのだけど、その記事の中で神父の資格を持つ日本人に告解したというくだりがあった。告解を受けた日本人はその内容を明かすことはなかったけれども、自分が作り出した原爆に翻弄された彼が被爆国の人間であり同じクリスチャンである男にどのような告解をしたのかと思いをはせると、涙を禁じ得ない。畳む